「文脈(コンテキスト)の中でこそ、単語は理解され、習熟されうるのです」(ロンブ・カトー「わたしの外国語学習法」)
子どもが学校に入ると、自然といろいろなお母さんたちに出会いますが、そういう中で常に思い知らされることは、「私は人の名前を覚えるのが苦手」ということ。経験者はおわかりでしょうが、これってひどくなると一種の「恐怖症」になりますよね?
うちは子どもが2人ですが、「この方、どっち(上の子、下の子)の関係のお母さんだっけ?」とか、「ああ、どこかで顔を見たんだけど、誰だっけ?」とか、行事で学校に行く度、あるいは近所に買い物にでかける度に、浮かんでくる疑問…。いわゆる「顔と名前が一致しない」という状態。
筆者はこういう状態が起こるのも、結局その「名前」を文脈の中でつかんでいないからだ、というのです。
****以下、引用です
単語とか名前を、絶対に真空管の中にぶらさがっている格好にしてはいけません。すでに知っている表現とか概念と連結させることです。この際、必ずしも意味的結びつきを追求しなくても良いのです。記憶を固めるには形式的な類似だけでも、十分なのです。
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たしかに「顔と名前が一致しない」のは、「顔と名前を一致させる(連結させる)」状態にないからなんですよね。子どもに「あのお母さん、○○ちゃんのお母さんだよ」と聞いただけだったり、クラスで顔をよく合わせてはいるけどお互いきちんと向き合って話をしたことがなかったり…。これでは記憶は固まらないはずです。
筆者は、「日本語で<貧しいこと>を意味する単語」と「イタリア語で<少年>を意味する単語」は一生忘れないといい、それは「両方とも”BIMBO”と発音するから
」と例を挙げています。
…これって、「こじつけ」とか「語呂合わせ」みたいな感覚で単語を覚えよう!ってことですよね?
(もちろんそれだけで終わるわけではないのですが…) 「記憶に定着させる」手段として、「こじつけ」も有用であり(筆者は「こじつけ」という言葉は使っていませんが、上の例はある意味「こじつけ」ですよね?)、なんの文脈もなしに覚えようとしても覚えられるものじゃないっていうことですね。
これは、語学学習者ならおおかた「それはわかってるよ!」と思うかもしれませんが、私は「こじつけ反対論者(?)」だったものだから、「こじつけもOK!」って言われたことがちょっとショックだったわけです。好きな歌手の歌詞の中に出てきたときとか、韓国人の友だちと話してるときとか、なにか実体験と連動してその単語に「出会った」ときというのはよく覚えられる(忘れない)ものですが、こういうのが文脈(コンテキスト)に通じるんでしょうね。
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